昭和50年12月23日 朝の御理解
御理解 第65節
「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄と云うは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分の都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと云うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に吉い悪いはないと思え。」
私は昨日御理解の中に、絶対信という言葉を使ってお話を聞いて頂いたのですけど、先ず金光様のご信心をさせて頂いて、有難いと思い、また分らせて貰わなければならない事はここの所だと思うですね。日柄とか方位とか家相とかと言った様な、間違った考え方だと信ずる事。天地の親神様の何処だって同じ御懐の中だと、例えばそれを先ず信ずる事だと、確信する事だと言わば根本になる所です、金光教の信心の。もう心が限りなく、大らかに豊になりますね。
それを信ずる確信すると言う事。そしてそれを信ずると、言う事だけではなくて、そういう結構な日々を、又そういう結構な御恩恵の中にお生かしのを頂いて居ると言う事をです、その確信が強くなって来れば強くなって来るだけ本当に勿体ない事じゃなあ、有難い事じゃなあ今日も、日のお照らしなさって居る今日である。その中にお生かしのおかげを頂いて居るという事が有難い、と言う一切の事柄の中に有難いと、感謝の心も湧いて来ると云う者です。
今日は日柄が良いの悪いのと、家相が良いの悪いのと、例えば普請をさして貰うでも、本当にそこにこだわると言うか、そこの所を心配すると言うか、所謂世間狭うしてしまう、そういう生き方は、天地に対する御無礼である。だから御無礼であるその反対ですから、有難いと言う事になるのです。そうい御無礼を言わんで済む、知らぬ昔は本当にそう言う事にも、言うなら世間狭い生き方をして居ったものがです。
金光教の信心するようになって、もう本当に一切がおかげであると言う様な大きな信心が、段々身に付いて来ると言う事がです有難い。そこから初めて一切のものと拝み合う、云うならば和の世界が開けて来るのです。今日は日が悪いをいうたらもその日と言うならば、いがみ合った様なものです。そう言う事ではない。今迄は悪いと思うておった、日柄と云う様な事に対してでも、お礼が言えれる拝み合える、一切とも和が生まれるおかげ、信心をさせて頂くと、皆が申します。
信心とは拝み合いの生活だと、全く日々がです、その天地と拝み合うて行くと言う事はです、例えば起きて来る、そういうお天気の事であろうが、日柄方位の事であろうが、一切の事柄と神様の御恩恵の中に。例えば神様のお土地にお許しを頂いて家を建てるのであるから、家相のへちまのと云う事は言わんで済む事が有難い。只感謝の心をもって有難しと言う事だけになって来るときに、そこに和が生まれる。
天地との和が生まれるのです。そう言う事を私は拝み合う事だと思う。天地と拝み合う、天地にまた起きて来る様々の事柄と和をもって結んで行く生活。金光様の信心はそういうところになってから一切が拝めれると言う所、人間関係に於いてもそうです。今朝久振りで子供達が全部揃うて私と一緒にここに出て参りました。四人の子供達が私の出仕に奉仕して呉れる訳で御座います。本当に私は有難いと思う事はね、親が拝めれると言う事ほど、子供にとっては幸な事はなかろうと思うですね。
誰もそげんせにゃならんとか、こうしろと言うた事はないのですけれども、まあ朝私と一緒に出て来て、所謂自分達も一緒に出仕して呉る。そして私がいよいよ神前に入る時には、所謂今日は光昭が何時も扉と、ここの戸を開いて呉れて、それこそ板張りに頭をすり付けんばかりにして私を待って居って呉れている。直子、幹三郎、栄四朗三人が私が出るときにはもうそれこそ畳に頭をすり付けて、言わば言うなら親を拝んで居る。ああ良い気色のもの、そういうものではない。
私は本当に親が拝めれるということ程子供にとって幸せはない。勿論拝まれる親も幸せですけれども、私は拝めれる子供がね幸せだと思う。親が拝めれると言う事は、子供にとって本当に幸せですと私は思うです。それが例えば形式とは思われない、言うならば今日も早朝より親先生御苦労ですと言う思い、いやそれ以上の思いかも知れません、子供にとっては。そういう言わば喜びと言うか感謝の中に私が出仕させて貰う。
私は親も有難いですが子供が親を拝めれると言う事は幸せです。金光様の御信心はここから始まると私は思います。そこで天地が拝めれると言う事は氏子にとってこんな素晴らしい事はない。言うならば天地を拝むと言う事は天地の間に起きて来る一切の事柄でもです、拝むと言う事が、そのまま親を拝むと言う事です。起きて来る一切の事柄を、合掌して受けて行けれると言う事程、言わば氏子として幸せな事はないのです。
親が拝まれる親を持って居ると言う事が有難いのです。子供として拝まれる親を知ったと言う事が有難いです。金光教の信心は私はそうだと思うです。天地金乃神様金光大神の御取次に依って分からして貰いおかげが受けれる様になり、その天地金乃神様の御心がわかる時に日柄も言わんで良い、方角も言わんで済む。勿論家を建てるのに家相などと言う事はもう本当に勿体なくて言われない事になって来るのである。
だからそれをそういうふうに頂けないと言う事は天地に対する、言わば御無礼なんです。日柄を言ったり家相を見たりする事は、もう天地に対して是ほどの御無礼な事はないです。そう言う事が前々のめぐりで難を受けおる、と仰る様に難儀の元を創って行くのです。拝めれると言う事。拝んで受けて行けれると言う事は、なら日柄とか家相とかだけの事ではない。天地の間に起きて来る一切の事柄、しかもそれを自分の上に現れて来る事柄をです、親の働きの現れであると、頂くのが理の当然です。
親の働きそれを合掌して頂く時、初めて親が拝めたと言う事になるのです。拝み拝まれると言う事を申しますが、先ずは、私は拝む拝めれる私にならねばいけません。拝み拝まれる、そこから歓喜の世界が開けて来る。絶対信と言う事はです、そういう天地の働きの中には困った事とか、難儀な事とか良いの悪いのと言う事はない。皆氏子可愛い一念だけの働きしかないんだと。
私は先ずは信ずる事であり、そこに確信を持つ事だと思います。ただ金光様の信心をすりゃ日柄も言わんで済む、方位も言わんで良い。家を建てるのに家相なんか少しも見ないていい、本当に便利がよいと言う様な頂き方ではいけません。いけないと言うだけではなく、それを私は拝んで行けれる所に信心があるのです。先ず拝まれる前に、先ずは拝む事です。拝めれる私になる事です。天と地が一つになって喜び合う時鶴亀の舞遊ぶ様なおかげ、と昔頂いた御理解です。
天と地が一つになって喜び合う。それこそ鶴亀が舞遊ぶ様なおかげ、そういう世界に私共は日々進んで行かなければいけません。親と子が本当に喜び合えれる、拝み合うて行けれる。夫婦が拝み合うて行けれる、そこに歓喜がある。その悦びの声を発する程しに、歓喜の心を表して行くとき鶴亀の舞遊ぶ様なおかげと言われるのですから、素晴らしいそこに世界が開けて来る。
夫婦の交わりの事にしてもそうです。不浄のもの汚らわしいものと言う様な頂き方は間違いです。夫婦が拝み合うて歓喜し合うときに、それこそ天地の親神様も一緒に悦んで下さる。天と地が一つになって喜び合う時。鶴亀の舞遊ぶ様なおかげと、そういう一つの理と云うものがです、なら私共と一切の事柄、私共とあらゆる人間関係、私共とあらゆる事柄とも同じ様な和を以て結ばれて行く行き方を拝み合いの信心生活と言う事だと言うのです。お互いがどの位拝み合うて行けておるだろうか。
それには先ず私が拝めれる人にならにゃいけないです。そこから拝まれる働きが生まれて来るです。先ずはこちらが拝めれる私になる。良い悪いはないと思えと、日のお照らしなさる日に良い悪いはない様にです、日々の天地のお働きの中には良い悪いはない。皆有難いものばかりなのだ。言うなら神愛ばっかりなのだ。そう確信されるときに一切を合掌して行けれるし、又合掌して受けて行けれるのだ。そこに私は天地金乃神様といわゆる天地と私共の大調和があると思います。
私は何時も毎日の事ですけど、今日は子ども達が皆揃って朝の出仕に御用奉仕して呉れました。で、それを特に思いました。みんなの子供から毎朝このようにして拝まれて居る私、それは拝まれて居る私も有難いけれども、拝んでいる子供達自身が幸せだ。拝まれる親を持って居ると言う事がこの様な幸せな事があるだろうかと言う事なのです。そこで私共が天地の親神様が拝めれる、ただ天地金乃神様と拝むと言うだけではない。天地の親神様の働きの全てを拝むと言う事なのですよ。
それで初めて天地金乃神様を拝むと言う事になるです。天地の親神様の働きの全てを私共が拝ませて頂くときにそれは天地の親神様も勿論お喜びでしょうけれども、それを拝める私共が有難いのです。何故って次には鶴亀の舞遊ぶ様なおかげになって参りますから。私共が只天地金乃神様と云うて自分の都合の良かときだけ拝んても神様はこっちを拝んでは下さらんです。天地の親神様の一切を拝めたとき、働きの一切を拝めるときに天地の親神様もまた私共を拝んで下さってあるのです。
天と地とが一つになって喜び合うとはそう言う事なのです。そういう歓喜の世界があるのです。私共は中々出来ませんけれども愈々一切の所謂、天地を拝まして貰う天地金乃神様を拝まして貰うと言う事は、天地の親神様の全てを拝むと言う時に初めて天地金乃神様を拝んだと言う事になるのですから。そこん所を果してどれ程に拝まれて居るかという自分を知りそして拝まなければならぬ事を分かり。
一切を拝めて行く姿勢をとらせて頂く所から、天地の親神様もまたおかげを下さろうとする姿勢におって下さるのです。今日はこの六十五節の、もうそれこそ金光教の信心の根本というか、先ずここが頂けずしておいて金光教の信心を頂いて居るとは云えない。金光様の信心しよっても、日柄を云うたり方位を云うたり家相を見たり、さあ結婚式と言えば黄道吉日を選んだりと言った様な考え方がある間は、まだ金光様の信心を頂いてはいないんだ、信じてはいないんだと言う事になるのです。
そこでそれを信じさせる為にです、様々なことがあるのです。先日も日田の竹内さんから電話が掛って来た。この頃からずうっと体の具合いが悪い。兄弟達が皆集まって、それは胃から来とるとじゃから胃の透しをしたら良かろうと言うので、医者に掛かっても良かろうかと云う電話であった。安心が行く為に掛りなさいと言うて申しとりましたから、それで医者に行かれた。医者も三軒位あるからどの医者に掛ったら良かろうかと言うから、こうこうこの医者に掛かりなさいと私は申しました。
昨日一昨日でしたかお礼に出て見えた。もう親先生おかげを頂きました。これで安心が出来ました。どうもないと言われましたと私が言っておる事では信用せん。けど医者からどうもないと言われたから、おかげを頂きました親先生とこう言う。それは私の言う事を信じさせる為にそういう手を取る事がある訳です。やっぱり親先生の言われる通りにすれば良いと言う事なのです。それでも尚且つまだ権威のある人の言葉と言う事は、そんなにですね医学なら医学と言う事においては医者は権威者ですから。
その権威のある人がどうもないですよ、心配いりませんよと言うから、ちゃんと一偏で快くなった様な気がしたお礼に出て来られた。高芝さん所のお母さんが亡くなられたときに、丁度友引きですかだから何時々が葬式と言うて親戚に電報を打っとったけれども。友引きだと言われのでそれを一日延ばすから、と言うお届けに来ました。それで私がその時分はまだばりばりやかましい時で御座いましたから、私が金光様の信心しとって総代までしとってそんな事言うてからと言うてからやかましゅういいました。
それで又親先生がああ言われるから電報で打ち直して、また元に戻してから告別式を致しました。もう本当に大変な良いお天気に恵まれて、おかげを頂いた。あの時分は火葬場に銘々でリヤカーを引っ張って火葬場に持ってゆかねばならない時代だった。あの時分は、さあ所が、翌る日は土砂降りでした。と言う訳で本当にそれを知り、そう言う事はないと言う事を分からせる為にです。
やっぱりそういう手をお互いがそういう手を煩わして居る訳なんです。本気で信じて呉れよ分かって呉れよと言う事なんです。そして天地の働きの中に言わば日柄とか方位とか、所謂迷信的とかそういう考え方から私共が本当に金光教的物の見方、考え方と言う者が出来て来るときにです一切がおかげ。いつもが有難いんだと言う事になって来る。それが只分かっただけでなくて、それに感謝の心を表すして行く生活を信心生活だと言う事を聞いて頂きましたですね。
どうぞ。